溶けてなくなる
祐巳さまは、絶対に気が付かない。例えば瞳子が、紅薔薇さまに寄り添う彼女の後ろで大声で何かを叫んでみたとしても。
不思議そうに辺りを見廻してから、きっと気のせいだと微風のように流してしまうのだろう。そして、何事もなかったかのように笑みを浮かべて祥子さまに向き直る。
けれど、祐巳さまが瞳子に気付かなかったからといって、一体誰が彼女を責められる?
気が付くはずがない。
だって、祐巳さまが振り向いた其処には、誰もいなかったのだから。
そもそも、スタート地点にすら立っていない。瞳子は今朝見た夢の内容を思い出して苛立った。
その拍子に芯が折れて使えなくなったシャープペンシルを玩びながらじろりと睨み付けていると、視界の端から水色のペンを持った腕が伸びてきた。
「はい。いいよこれ使って」
乃梨子さんが無感情な表情で机の横に立っていた。いつから瞳子の様子を眺めていたのだろう、随分とタイミングが良いものだ。
なるべく自然な動作でノートを閉じてから、瞳子は肩を竦めた。
「ええ、有難う。でも、もう書き終わった所だから」
「そう?珍しいね、時間内に瞳子がノートを取り終わらないなんて。授業中、なんだかずーっと呆けていたみたいだけど」
「私にだって考えることくらいあるわ。乃梨子さんこそ、授業中に余所見をするなんて珍しいのではなくて?」
「…ああ」
何が分かったのか知らないが、乃梨子さんは数回頷く。
「確かに考え物だわ。自分のノートに悪戯書きされていたら」
「…」
やはり見られていた。
色を変えた瞳を見られまいと俯き、心の中で小さく舌打ちをする。
「驚いた。この学校にも、そういうことをする人がいるんだね」
「あら、ここにいるじゃない」
「…瞳子は違うよ」
久々にしては、上出来な冗談だったように思ったのだけれど、乃梨子さんは特別表情を変えたりはしなかった。
つい先程の出来事。
授業の始まり、いつものように机からノートを取り出すと、偶然開いた一番最後の真っ白なページに「卑怯者」とだけ書かれていたのを瞳子は見つけた。
それが細く整った女性的な筆跡で、行に収まる程の行儀良い文字だったものだから、拍子抜けしてしまった。
卑怯者と罵り瞳子を傷つけたいのならば。もっと大きく目立つように書けばいいのに。それもシャープペンなどではなく赤ペンで。受けるダメージだってその分増加する筈である。
ノートと睨み合っている内に段々とどうでもいい事にまで腹が立ってきて、瞳子はそれを黒く塗り潰した。
その様子を乃梨子さんに見られていたみたいだが、瞳子にとってはただそれだけのことだ。消してしまったのだから、もう過ぎたことでもある。
「なんて書いてあったのって、聞いてもいい?」
それなのに、どうやら乃梨子さんは違ったらしい。遠慮がちに視線を一度彷徨わせてから、そう言った。
最近彼女はらしくもなく、やけに瞳子やその周辺に敏感である。その原因に心当たりが全くない訳ではなかったけれど―。
「別に大したことじゃないわ。卑怯者って、ただそれだけ」
「…なにそれ。これが初めてじゃないの?」
「落書きは、今までなかったわね。廊下ですれ違い様に似たようなことを呟かれたりしたことは何度かあったけど」
そういえば今朝もクラスメイトの集団に挨拶をしたら気まずそうに目線を逸らされたような気がする。最近じゃ珍しくなかったから、すっかり忘れていた。
沈痛な面持ちで数秒間何やら考え込んでから、乃梨子さんは重たげに唇を震わせる。
「ねえ、瞳子。この間…茶話会の時は私ああ言ったけれど、やっぱり」
「乃梨子さん」
素早く傍にあった乃梨子さんの腕を掴むと、彼女はハッと目を見開いた。少し、力が入り過ぎたかもしれない。
構わず身体を引き寄せると、瞳子は小さい声で、けれど力強く囁いた。
「お願い。祐巳さまには言わないで」
その為に、瞳子は詳細を話したのだ。短い付き合いながら乃梨子さんの性格はある程度承知しているつもりだ。
瞳子が悩みを抱え込んで一人落ち込んでいたならば、彼女はなるべく自然な方法で瞳子を救おうとしただろう。現に何度かそれで助けられたこともあった。
けれど、こうして直接頼み込んでしまえば、きっと彼女は。
「…分かった。瞳子がそう言うなら、言わない」
こう見えても、乃梨子さんは真っ直ぐで潔い。
予想通りの返答と、向けられた邪意のない意思に、瞳子は自分が情けなくなって唇を噛んだ。
『あの二人が、もしかしたら姉妹になるかもしれない』
何故皆瞳子を祐巳さまの隣に置きたがるのだろう、と思う。祐巳さまも瞳子も、噂の当事者はそのような事を一度だって口にしていない筈なのに。
学園祭を二人で回ったり、確かに他の一年生よりも僅か距離の近い場所に居たかもしれない。けれど、だからと言って二人の関係を姉妹に直結させてしまうのは、あまりにも浅はかではないか。
だって、ほら。祐巳さまにとって特別な後輩、なんて人物は恐らく存在しないのだ。
手伝いを申し出てくれた乃梨子さんと一緒にゴミ捨てをした帰り、瞳子は廊下の先に見知らぬ一年生と会話する祐巳さまを見て足を止めた。
突然立ち止まった瞳子を不思議に思い肩越しにその様子を覗き込んだ乃梨子さんは、合点がいったようにそれに倣った。
屈託のない笑顔で一年生に話しかける祐巳さまは、身体の芯から和やかで暖かな空間を形成している。一年生も胸に手を当て、頬を紅潮させながらその雰囲気に身を任せているようだ。
傍から見れば微笑ましい光景。純粋な好意だけがそこに在る。
瞳子よりも彼女のほうが、余程祐巳さまとの噂に相応しいというものだ。
「行きましょう」
「…はいはい」
ここに居たら、余計に苛立ちが募るばかりだ。後ろの友人に振り返りもせずに告げて、瞳子は再び歩みを進めた。
「あれー、瞳子ちゃん?」
何食わぬ顔で祐巳さまの横を通り過ぎようとすると、実に気の抜けた口調で、のんびりと呼び止められる。ふと目が合ってしまった。
「それに、乃梨子ちゃんも。奇遇だね」
「…ごきげんよう」
「ごきげんよう、祐巳さま」
投槍な瞳子にも、苦笑しながらも前に出てきちんと挨拶を返した乃梨子さんにも、祐巳さまは変わらない笑顔を投げかける。お人好しというより、何も考えていないだけなのだ。
おいでおいでと手招きをする祐巳さま。
隣に居た一年生は緊張に口元を固め、ちらりと瞳子を見やってから「失礼します」と祐巳さまに一礼して、そそくさと廊下の奥へと消えた。
これでまた、ある事ない事を噂される回数が増えるだろうかと、そこまで考えた所でやめた。自分が酷く嫌な人間に思えたから。
「瞳子ちゃん、元気にしていた?」
暫く不思議そうに去った一年生を眺めていた祐巳さまが、気を取り直したように瞳子達を振り返る。
「それ程長い間、顔を合わせなかった訳ではないでしょう」
「確かにそうなんだけれど。でも、なんだか久しぶりな気がして。瞳子ちゃん、近頃ちっとも顔出しに来てくれないから。ね、乃梨子ちゃん」
「そうですね」
相変わらずの苦笑いを崩さずに、乃梨子さんはそう答える。この会話に深く踏み込む気は、あまりないらしい。
ならば瞳子が、さっさと切り上げてしまわなくてはならない。祐巳さまが言葉を発する気配を見せる前に、早口で捲くし立てた。
「茶話会の話、聞いていました。妹を本格的にお探しになられるのでしたら、生徒会に関係のない一年生が周りでうろついているのは迷惑でしょうから」
祐巳さまがきょとんとして、刹那時間が止まった。それから、にっこりと笑む。
あ、まずい、と瞳子は思った。
会話を切り上げるには、もっと適した言葉があったかもしれない。けれど、一度喉から出た物は、もう飲み込めはしない。
「ああ、茶話会。あんまり上手く話が進まなかったの。それに、そんなこと瞳子ちゃんが気にすることないのに」
「…」
ズキリと胸が痛んだ。やっぱり、そうだ。
この人は、特別瞳子を意識している訳じゃない。そんなこと、祐巳さまを見ていれば誰にだって分かる事だろうに。
「瞳子ちゃん?どうしたの、何かあった?」
黙り込んだ瞳子の顔を、訝しげに祐巳さまが覗き込む。漂ってきた香りと温い風に、頭がくらりとした。
素直に生きるのは、とても勇気がいることだ、と祥子さまは言った。では、その勇気とは何なのだろう。
乃梨子さんにしても祥子さまにしても、瞳子が祐巳に思いを寄せているように見えるのかもしれない。ああ、それはこの際認めてしまおう。
自分でも理解しかねるが、もしかすると彼女に惹かれている部分はあるのかもしれない。もしも妹が出来たなら、きっと少しは悲しむだろうけれど、それで終わりだ。
瞳子には、下手に祐巳さまに近づくような真似は出来ないのだから。
今朝見た夢のような、耐え難い孤独感に苛まれるのは、嫌だ。自分が好きなように想いを喚いたとしても、振り向いた祐巳さまの瞳に、瞳子が映っていなかったとしたら。
「いいえ、何も」
これじゃ、本当に卑怯者だ。
祐巳さまの丸い瞳に、ちらりと自分の影が揺らいだような気がして、瞳子は力無く首を横に振る。
祐巳さまは、目を伏せた瞳子と、横に居る乃梨子さんを見比べてから、こう言った。
「…そっか。気が向いたら、薔薇の館においで。私、待っているからね」
「…」
返す言葉を見つけられずにいる瞳子を見かねたのか、乃梨子さんが努めて明るく振舞う。
「瞳子、部活人間だから。今度、無理矢理にでも連れて行きます」
「うん、そうだね、それがいい」
鼓膜を震わせる柔らかな響きに、不意に涙が零れ落ちそうになった。
実際、本当に自分が泣いているかもしれないとも思った。けれど、全ては錯覚だ。絶対に、祐巳さまの前では泣いたりしない。
「あ、まずい。教室に由乃さんを待たせたままだった!」
「……きっと怒られますよ」
「うん、本当。それじゃあ、そろそろ」
クスクスと笑う乃梨子ちゃんに、眉根を寄せ困惑した表情で祐巳さまは言った。そのまま、くるりと身体を反転させる。
ああ、祐巳さまが行ってしまう。心の何処かで種類の不明な溜息をついた瞬間、まるで劇のワンシーンのように祐巳さまは振り返って、瞳子の頭をふわりと撫でた。
「またね、瞳子ちゃん。元気な顔、見せに来て」
祐巳さまの手の平は、とても小さかった。
その感触を、瞳子は忘れることが出来るだろうか。
「瞳子、貴女――」
頬が、熱い。
やがて祐巳さまの背中が見えなくなった頃、呆然としていた瞳子の顔を見て乃梨子さんは、驚きを籠めた音で言葉を紡ぐ。
「…今からでも、遅くはないよ」
瞳子の肩に触れ呟いた乃梨子さんの表情を、ついに見ることが出来なかった。
あの人の為の勇気なんて、この身体の隅々を探したって、きっとない。
そしてあの人は、見る見るうちに遠くへいって小さくなり、眩い光の中に溶けて、やがては消えてしまうのだ。
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