朝の贈り物


囁きよりも穏やかなそよ風をふと頬に受けて、水面に浮かび上がるように私は夢の世界から緩やかに帰還する。

光を拒否する重い瞼を無視し、目を瞑ったまま緩慢な動作で腕を伸ばした。
休日だろうが、多忙な一日の始まりだろうが、私が毎朝起きてすぐにやる事は決まっている。
どんな言葉や行動でも表せない程に愛しい人に触れること。
まるで子供みたいだけれど、それを実行しない限り、その日一日私の思考や身体が正常に機能してくれないのだから仕方がない。
大抵手を伸ばした先には既になのはは居ないが、その場合は後になのはが私を起こしに来る時に持ち越せば良いだけの事。
とは言え今日は珍しく二人とも休みだから、そこに彼女が存在している事は確信しているのだが。
「…?」
ふと、手の平が空を掴んで、二の腕辺りを何かが掠める。
疑問に思って目を開けると、思いのほか至近距離になのはの寝顔があった。二の腕を擽ったのは、どうやらなのはの髪の毛だったらしい。
思わず小さく叫んでしまいそうになるが、何とかそれを飲み込む。
叫び声で不快な目覚めをなのはに提供したくなかったからで、この状況を逃さない為では断じてない。

行き場の失った手をゆっくり自分の胸へと戻す。
少し顔を前にずらせば、なのはの唇に触れてしまいそうな程の距離に、自然と胸が高鳴っていた。
寝顔だけに限らず、こんなにも間近でなのはをじっくりと眺めるのは久し振りかもしれない。
起きている時になのはの顔がこんなに近くにあれば当然キスしてしまうし。
意外とお互いに照れ屋なので、愛を確かめ合い体を重ねた後ですら、僅かな距離を取って眠りについているのだ。
「なのは…」
小さく彼女の名を呼ぶと、伴った私の息でなのはの長い睫毛が震える。
昨夜も遅くまで仕事をしていたせいか、目覚める気配はない。
「なのは」
調子に乗ってもう一度呼ぶ。
なのはの吐息が、応えるかのように私の頬を撫でた。その優しい感触に、ふと気が付く。
そういえば昨日は窓を閉めて眠ったし、先程私に目覚めを運んでくれた柔らかな風は、恐らくなのはの寝息だったのだろうと。
フェイトちゃんは朝に弱すぎるとぼやきながらも、いつも根気強く私を起こしてくれるなのはだけれど。
何も眠っている時まで私に朝をプレゼントしてくれなくてもいいのに。
無意識の内でもしっかり者のなのはに、なんとなく愛しい気持ちで胸が一杯になって、押し出すように小さく笑みを漏らした。
再び揺れるなのはの睫毛。
「…ん…」
くすぐったそうになのはが目を擦る。
そのままなのはの顔が隠れてしまいそうだったので、慌ててその手を軽く掴んで引き寄せた。
「んん…?」
「あ…」
その行動によって、なのはの意識が急速に覚醒へと近付いた事実に益々狼狽える事になってしまったのだが。
ああ、私の馬鹿。こんなチャンス、滅多にないっていうのに。せめて後三十分くらいはこのままの状況に置かれていたい。

数秒後。
私と違って目覚めの良いなのはは、そのささやかな願いをあっさりと砕いてくれたのだった。
「ん…フェイト…ちゃん…?」
「ご、ごめんなのは。起こしちゃった、よね?」
「んーん…。いま、何時?」
「ちょっと待ってね、えっと…。うわ…よ、四時だって…はは」
その日初めて体を起こし時間を確認した私は、休日の起床にはあまりにも早すぎる時刻に驚愕した。
なのはも倣って上半身を起こして目を丸くしている。
「四時?フェイトちゃん、今日は随分と早起きさんだね」
「いや、その…ごめん!起こすつもりなかったんだけど…ほんとにごめんね、なのは疲れてるのに」
心の底からしゅんとした私の様子に、なのはは苦笑する。
「そんな顔しないで。また寝直せばいいだけなんだし、でもどうしたの?フェイトちゃんがこんなに早く…もしかして具合悪いとか」
「ううん、違うの!そんなのじゃなくて…」
「変な夢見ちゃった?」
「う、ううん…そんなのでもなくて…」
心配そうに顔を覗き込んでくるなのはに、慌てて首を横に振る。けれど言葉尻を濁した私に、なのはの瞳が更に不安げに揺らめいた。
ああ、もう。休日の早朝に無理矢理起こした挙句、無駄な心配まで掛けて―。
さっきまで幸せ絶頂だった気分が、あっという間に最下点まで下降してしまいそうになる。
でも、話せる訳がない。単になのはの寝息で目覚め、その事で幸せを感じつつなのはに見惚れてボーっとしてただけです、なんて。

俯き黙り込む私を暫く探るような視線で観察したなのはは、やがて表情をふわりと大きく崩して。
「ま、いっかぁー」
そのまま勢い良く私の胸に上半身を預けた…と言ったら聞こえは良いが、むしろぶつけてきたと述べた方が正しい。
「ぶはっ!ちょ、な…なのは!?」
咄嗟に腕に力を込めて、なんとかベッドに倒れこむのを防ぐ。
無防備な状態だったので、ちょっと痛かった。
「んー?」
その痛みを味わう間もなく、なのはから薫る甘い香りに眩暈を覚える。
くらりとした所で首筋に鼻を擦りつけられ、色んな意味で背筋が凍った。
再び激しい鼓動を始める心臓。まだ起きてから一時間も経っていないのに、若干負担をかけ過ぎているような気がする。
って、そうじゃなくて。
「なのはってば…!何して…」
「一人で起きられたフェイトちゃんにご褒美ー」
「ちょっ…わああああ」
妙にご機嫌ななのはは、そのまま鼻先で私の髪を掻き分け、後頭部の生え際を唇で強く噛んだ。かぷりと。
なのはの唇は柔らかで甘く。そこに口付けるとまるで苺のマシュマロを食べているみたいで。本当に、世界一の感触なのだと常々思っている。
だというのに。その愛すべき世界一の唇は、この時ばかりは針のように鋭く私を貫いたのだった。

一体どうしたっていうのだ。
いつものなのはは、もっと、もっと恥じらいがあって、キスする前に私が視線を合わせようとすると、照れ笑いをしてそっと俯いてしまう程の―。
そしてそれを追いかけるようにして覗き込むと、伏し目がちに頬を紅潮させたなのはの表情が視界に飛び込んできて。
逃げないでと懇願し唇を重ねた瞬間、羞恥に耐え切れず吹き出し、クスクスと漏らすなのはの吐息の熱さといったら…!
とにかく、いつもの彼女はこれほど積極的ではない、筈だ。いや、こんななのはも決して嫌ではないけれど―というかむしろ…かなり素敵なのでは?

完全に混乱している私を他所に、なのはは私の耳に興味を惹かれたらしく、私の頭をがっちりと抱え込み、やたらと丹念に耳朶を口に含んだり指で摘まんだりして遊んでいた。
よし、これはもう気付かなかった事にしておこう。いちいち反応していては埒が明かない。
身体に与えられる刺激を強制的に脳から引き剥がし、私は考える。そしてある結論に至った。
もしかして、もしかしなくても、なのはは寝惚けているのだろうか。睡眠時間も相当に短かったし、無理もない話である。
さっきまで普通に会話していたような気がするが、彼女は寝惚けていてもなんとなく意志の疎通が出来てしまうような希少な人なのだろう。
…それならまあ、色々しても大丈夫かな。
散々揺さぶられた心が、多少自分に都合の良い地点に着地する。大丈夫。何も問題はない。
何故なら私はこの瞬間を待っていたのだ。なのはの生きる証を頬に受け朝を迎えた、そのときから。
「なのは」
「ん…なーに?」
私の耳を弄んでいたなのはの手を掴んでやめさせる。
玩具を取り上げられた子供のように、拗ねた表情で私を見上げる。
「ご褒美なんだよね?私が早起きしたから」
「うん、そうだよ。フェイトちゃん、良い子だから」
そう言って、なのはは微笑み私の頭を優しく撫でた。
―まずい、可愛すぎる。こんななのは、中々見られるものじゃない。
「だったら…その、キスしていい?」
多分キスだけじゃ済まないと思うけど。
昂る鼓動を抑え、至極真剣な顔を作ってそう尋ねた。
私のお願いに、なのはは酷く優しげな光を瞳に灯して―。


「だめ」
「ありがとう、それじゃ頂きま……って、えええ!?」
「ふふ」
予想だにしなかった返答に硬直する私をそっと押し倒し、そのすぐ隣に並んで横になったなのはは、私の体に足を絡ませ密着した。
「今日はずっとこうしてたい」
「ちょ、ちょっと待ってよなのは…いくら何でもそれは…」
「じっとしてて」
「キスくらい…」
「だめ」
「う…じゃ、じゃあちょっと離れて…」
「それもいやー」
天使のような微笑みで悪魔のような非道な宣告をしたなのはは、おろおろとする私の鎖骨に軽い口付けを落とす。
そのまま胸の膨らみに額を押し付けるなのはの明瞭な意志表現に、私は今度こそ大正解であろう結論を導き出した。
「ねぇなのは…本当は寝惚けてなんかないでしょ」
「なんのことかな?」
恐る恐るした質問に、くぐもった声で答える。表情が見えないので、何を考えているのか全く想像出来ない。怖い。
けれど此処で立ち止まったら負けだと、私は更に質問を重ねる。
「特に理由もないのに早く起こされたから、実はちょっと怒ってるよね?」
「ぜんぜん。普段ねぼすけさんの癖に、お休みの時だけ妙に元気なフェイトちゃんへのご褒美だってば」
あ、やっぱり。
声のトーンからは微塵も感じさせないけれど、これは相当頭にきている様子。
「…」
「…」
「…謝るから」
「このままお昼まで寝てよう?」
「昼まで?!」
「うん、こうやってくっ付いて。きっと気持ち良いよ、凄く」
「いや、そんな事よりもっと…」
「…」
「なのはぁ」
「…」
「ごめんってば…」
「くー」
「え!?」
一瞬何かの冗談かと思って下を向くと、驚いた事に既になのはは夢の世界へ旅立っていた。

――酷い。こんなのって酷すぎる。
気持ち良さそうに吐かれたなのはの寝息が胸に当たって、今の私の空虚な想いと相反して熱い。
「なのはぁー…なのはさんー」
さっきみたいに起きてくれないかという淡い期待を籠めて呼びかけと共に息を吹きかけてみるが、結果としてなのはの髪を虚しく揺らすだけだった。

「…はぁ…」
この想いを何処にぶつけたらいいか分からず、肺いっぱいの溜息をつく。
眠っていても構わないから色々やってしまおうとも考えたけれど、なのはの怒りに拍車をかけ口も聞いてくれなくなったりしたら更に精神的大ダメージを喰らう事になってしまう。
仕方がない、昼までの我慢だ。たっぷりと眠れば、きっと彼女の機嫌も直っている筈。
どちらにしてもこの体勢じゃいずれ呼吸が苦しくなるだろうと(自身にもよろしくない)思い、身体に絡んだなのはの足を退けて、ほんの少し距離を開ける。
「んー…」
傍にあった温度を失くし、淋しげに眉を下げ唸るなのは。
ちょっとした仕返しのつもりで、私は暫くそれをニヤニヤしながら見つめていた。


ちなみに。 予告通り昼過ぎまで熟睡していたなのはが起床一番に発した言葉は、「お腹がすいた」だった。
その後一睡もせずベッドで悶々と『本当のご褒美』を心待ちにしていた私は、その色気の欠片もない発言に唖然としたのは言うまでもなく。
言葉を失ったまま反論出来ず挙句の果てには、その様を見て勘違いしたなのはに、またいつまでも寝惚けていたら駄目だよと腕を引かれ食堂へ直行する羽目になったのだった。


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