雨の薫り
土砂降りの雨が、二人を引き離してゆくのだと思った。
祐巳の声、姿、存在。その全てを雨が奪っていったから。だからあの時、お姉さまは祐巳を追いかけてはくれなかったのだ。
きっと、この空が晴れてさえいれば。
「お姉さまっ!」
けれど確かに冷たい雨は降っている。頬に伝った涙など、訳もなく洗い流してしまう程に。
お姉さまを乗せた車は、大きなエンジン音を立てて走り去っていった。
鈍く光る黒塗りのそれは、まるで悪夢の塊ようで。それが遠くへ消えた今ならば、此処には、何一つとして残ってはいない。
祐巳を助けてくれる人物も、環境も、何もかも。
悪夢が過ぎ去った後も、傘を握り締めながら祐巳は暫く空を見上げていた。
地面に生えた両足は硬い石か何かになったかのように、ピクリとも動かない。
お姉さまに捨てられたという絶望感や悲しみがじわじわと身体を浸食していく感覚よりも
自分一人の力では、歩く事すら出来ないのだという情けなさの方が、ずっと祐巳の不快感を煽った。
雨の降り頻る校門脇。そこにあったのは、打ち捨てられた祐巳と言う人の形をしたモノ。
『お姉さま』と呼び『祐巳』と呼んでくれた人に良い様に玩ばれ、彼女に新しい玩具を与えられると共に打ち捨てられた、そんな人の形。
そんな人の形をしたただのモノに、振り返る人はいなかった。
いや、遠巻きに祐巳の叫びを聞いた人はいた。祐巳の涙が雨に流される様を見た人はいた。
けれど、打ち捨てられた人形に、手折られ、萎びた蕾に手を差し伸べる人など、いようはずもない。
打ち付ける雨が身体を濡らし、雨水を吸った制服は肩に腰に腕にと重く張り付き、圧し掛かる。
スカートのプリーツは消えかかっていて、これでもかと乱れていた。セーラーカラーもどんよりと濡れ果て、翻そうにもただ重く雫を滴らせているだけ。
エンジン音が雨音に掻き消されて、一体どれくらい経ったのだろうか。
蒸し暑い梅雨の最中、けれど祐巳は全身を駆け巡る震えを覚えた。
雨に濡れ身が冷え切った事による、身体の防御反応か。それとも、お姉さまに去られた悲しみ故か。どちらにしてもその震えは、祐巳に今を知らせる余裕を与えてくれた。
土砂降りの雨の中、色取り取りに咲く傘の花。雨音を奏でるそれらは、まるで祐巳を取り囲むように一定の距離を置いて、離れている。露骨に立ち止まって祐巳を見るではなかったけれど、取り巻く円周の歩みは、確実にブレーキが掛けられていた。
「……明日、新聞部から号外が出ちゃうかな」
そう一人ごちた祐巳は、自分自身に驚きを隠せなかった。
見捨てられ打ち捨てられ悲しみに暮れて身体を動かす事が出来ないようなこんな状態でも、そんな事を考える余裕がある。
思わず、笑い声を上げたくなった。雨降る校門前で傘も差さない紅薔薇の蕾が、涙と雨を入り混ぜながら高笑いを上げる。周りは気が触れたのかと思うかもしれない。
それでもいい。本当に気が触れて、それで、この悲しみが無くなるのならいっそ……。
「祐巳さん!?」
まさに高笑いを上げようと口を開いた祐巳の耳に届いた、驚いたようなその声。
声につられて祐巳が振り返えると、そこにいたのは見知ったポニーテールの少女と、見知らぬ一人の少女だった。
「祐巳さん、どうしたの、傘も差さないで。今の車は…祥子さんよね?」
ポニーテールの少女――築山三奈子さまは、探るような口調で訊ねてきた。けれど、祐巳の意識は何故かもう一人の見知らぬ少女へと向けられていた。
三奈子さまのご友人なのだろうか。白い傘を差し、肩より少し長めに切り揃えられた髪を靡かせながら、じっと黒塗りの車が消えた先を見つめている。
もしかすると、彼女達は祐巳の取り乱す様を全て見ていたのかもしれない。でも、それならば何故。目の前に居る惨めな紅薔薇の蕾には、この人は少しも気にも留めず。
去っていったお姉さまの幻影を追うかのように、この空のように灰色で悲しく、それでいてガラス細工のような透き通った瞳を向けているのだろうか。無情にもお姉さまを奪った景色のその向こうに、何かがある筈はないというのに。
「ちょっと、いったい何があったのよ。ねえ、祐巳さんってば」
肩を揺すぶられ、ハッとする。
三奈子さまは蒼白な顔をしてこちらを覗き込むように凝視していた。それはあまりにも必死な表情で。
それ程までに、今の祐巳は異常に見えていたのだろうと思う。認識すると、笑い出そうと歪んだままだった口の端が、ぴくりと引き攣った。
「…お姉さまが…私…お姉さまは…」
「しっかりしてよ、どうしちゃったの」
何か上手い事を言って逃げられればそれが最善の方法なのかもしれない。何せ相手はあの三奈子さまなのだから。
けれど、そんな気の利いた台詞を脳味噌は創りだしてはくれない。同じような言葉を呆然と呟く祐巳よりも、壊れたラジオの方が余程上出来なのである。それに、このまま家へ逃げ帰る気など毛頭なかった。
今この瞬間、誰でも良いから助けて欲しいと思っていた。この感情を胸から吐き出してしまかった。
誰でも良いから、溜まった水溜りに足元からずぶずぶと沈んで、このまま消滅してしまいそうな自分を救って欲しいと思った。
心配してくれた由乃さんを、祐巳は自分から突き放してしまった。
いつだって祐巳の危機を察し励ましてくれていた聖さまも、今此処にはいない。
お姉さまは、瞳子ちゃんと共に車へ乗り込み、去った。―昇降口から駆け出した妹の姿を探そうともせずに。
それなら、誰が祐巳の傍に居てくれるというのだ。
こんな、存在する意味のまったくなくなった、人の形をしただけの惨めなモノを、誰が救ってくれるというのだ。
引き裂かれ、氷のように冷たくなった心を持った人形のままじゃ、狂ってしまう。
立ち上がれない。もう、一人では立ち上がる事は出来ない。
「私…」
うわ言のように言葉を繰り返す祐巳の唇を、そっと暖かい何かが覆った。
その優しい感触に、祐巳は自分がこれ以上何かを喋るのは到底不可能なのだということを悟る。
それが車が消えた先を見つめていた、見知らぬ少女のハンカチだという事に気が付いたのは、顔を濡らす水滴が一通り拭われた後のことだった。
「此処は、とても寒いわね」
そして大人しそうな顔立ちのその人は、大分濡れているであろうハンカチを無表情でポケットに戻すと、視線を宙に浮かせて呟いた。
隣に居た三奈子さまは、何言ってるの蒸し暑いわよとその言葉を撥ね付けてしまったけれど、祐巳にとってその言葉は、とても大切な意味を持っているように思えた。
「三奈子さん、私のジャージが置いてあるから教室に戻りましょう。えっと…福沢祐巳さんもそれでいい?」
此処は、とても寒い。
祐巳の存在する空間だけを切り取って、永遠に氷漬けにしてしまえばいい。
「ま、このままという訳にもいかないし。そうね、それがいいわ浅香さん」
けれど、ついにそれは敵わなかった。
祐巳の身体に容赦なく降り注いでいた冷たい雨は少女の白い傘によって、いつの間にか遮断されてしまっていたのだから。
浅香さま。それが、灰色の瞳を持ったその人の名前だった。
「――大体の事は分かったわ。なるほどね、そんな事があった訳か」
そう三奈子さまは呟くと、溜息を一つ零した。
祐巳は三奈子さまのポニーテールが揺れるその先で、窓を激しく叩く雨を見ていた。
祐巳が身を包んでいたのは、リリアン指定のジャージ。けれどそれは、祐巳のものではない。
裏地に付いたタグにサインペンで書かれた、林浅香と言う名前。それは三奈子さまの隣でホットコーヒーを啜る、一見大人しそうな三年生の名前。
土砂降りの雨の中。白い傘に導かれるままに連れられた祐巳は、操り人形の様に浅香さまの教室へと連れられ、幼子の様に三奈子さまと浅香さまの二人掛りで制服を脱がされたかと思うと、気付いたらジャージを着させられた。
教室に残っていた浅香さまのクラスメイトたちには、奇異な光景として映った事だろう。
けれど三奈子さまも浅香さまもそんな外野の視線には頓着せず、ひたすらマネキンの様に立ち竦んだままの祐巳の濡れた髪を拭い、濡れた制服を大きなビニール袋に詰めてくれた。
そして今、祐巳の目の前には、暖かいホットミルクが置かれていた。
祐巳の着替えが済むとその足で、三奈子さまと浅香さまは教室から連れ出したのだった。人気のないミルクホールの奥まった席の一つに陣取ると、三奈子さまは祐巳に椅子を勧めてくれて、浅香さまは腰を下ろした祐巳の前に、湯気香るホットミルクを置いてくれた。
目の前で立ち上る湯気が、凍り付いたままの心を溶かしてくれる。促されるままに一口口に含むと熱が胸の奥に広がり、手の中にある牛乳瓶から伝わる熱は、悴んだ手を解してくれた。
そして祐巳は漸く、肌は着慣れないジャージの感触を知った。祐巳の持っているものと同じジャージ。同じ肌触り。同じ着心地。
けれど祐巳のものではない染み込んだ体温が、ゆっくりと祐巳を溶かしてくれる、そんな気がした。暖かかった。
そうして祐巳は漸く、二人に向かってぽつり、ぽつりと、事情を語る事が出来た。
「……あの、三奈子さま。この事は」
「心配しないで、祐巳さん。記事にするつもりはないから」
三奈子さまの溜息の残滓が消え掛かる前におずおずと呟いた祐巳は、当の三奈子さま自身の言葉に目を丸めてしまった。
「ど……どど、どうして」
「あのね、祐巳さん。私のことをなんだと思ってるのかしら」
そう苦笑いを浮かべた三奈子さまの隣で、浅香さまが口元に手をやり、クスリと微笑んだ。
「そりゃ警戒もするわ、三奈子さん。これまで数々の強引な記事を射止めてきたんですから」
「浅香さんまで……しょうがないわね」
苦笑いを浮かべたまま浅香さまの方を向いた三奈子さまは、小さくコホンと咳払いをすると、驚きで頬の筋肉が強張ったままの祐巳を見詰めた。
「この前も言ったと思うのだけれど私はもう新聞部の編集から引退したから、記事を書かないと言うのがまず一点ね。そして幾らなんでも、そんなに打ちひしがれた祐巳さんを見ていると、記事になんて出来ないわ。言ったでしょう?祐巳さん達のことが心配だったと」
三奈子さまの言葉の端々から伝わる温もりから、その言葉が真実であると祐巳にも伝わった。
けれど微かに引っかかる所もあった。温かい言葉と暖かいミルクは、祐巳の凍った身体を温めてくれると共に、幾分かの冷静さを与えてくれていた。
「でも三奈子さまが書かなかったとしても、他の新聞部の皆さんが……結構見られちゃったし」
目を細めて呟いた祐巳の言葉に、三奈子さまは小さく頷いた。
「大丈夫よ、真美は記事にはしないわ。確かに新聞部としてはネタになるかも知れないけれど、私と違ってそう言う分別を心得た子よ、あの子は」
そう言った三奈子さまの笑顔はとても誇らしげで、祐巳は三奈子さまが真美さんの事を心底信頼しているんだなと気付いた。
そんな二人が祐巳には、心底羨ましかった。
とても、哀しかった。
その後は三人向かい合い、窓を叩き地を叩く雨音を聞きながら、無言のまま座っていた。
少しずつ減ってゆく互いの飲み物からは、徐々に湯気も失われていった。けれど祐巳の身体と心は、それと反比例して少しずつ暖まっていた。
やがて浅香さまが、祐巳と三奈子さまの顔を見回し、言った。
「……そろそろ、帰りましょうか。福沢祐巳さんも暖まった事でしょうし」
そう言って微笑む浅香さまの視線はとても穏やかで、けれどどこか哀しそうに祐巳を見ているように感じられた。
その言葉を受けて三奈子さまが立ち上がり、後を追うように浅香さまが立ち上がった。そして、続けて立ち上がろうとした祐巳は、ふと気が付いた。この親切な上級生に、お礼らしいお礼すら言っていなかった事に。
「あの……浅香さま。ジャージ、有難うございます……ご迷惑だったんじゃ」
「いいのよ、気にしないで。替えもちゃんとあるから」
「ちゃんと洗ってお返しします……有難うございます。あとそれに、ミルクの……」
そう言って鞄から財布を取り出そうとした祐巳を、浅香さまは笑って留めた。
「気にしないでいいわ、高いものじゃないし」
「でも……」
「そうよ、祐巳さん。気にしないで。上級生がそう言ってるんだから」
戸惑いを隠せない祐巳を見ながらそう笑う三奈子さまは、笑いを収めると浅香さまの横顔を見詰めた。
微笑みを浮かべたまま祐巳を真っ直ぐに見詰める浅香さまと、そんな浅香さまを見詰めた三奈子さま。言い様のない何かを二人の空気から感じながらも、祐巳にはそれが何なのか、分からなかった。
短い時間。結局この場は祐巳が、折れる他なかった。
「……ごちそうになります。本当に有難うございます」
身を被っていた氷が罅割れる音が聞こえた。それが涙となって、滲み出そうになった。
祐巳は二人に向かって、深々と頭を下げた。
泣き顔を見せると、涙が止まらなくなりそうだった。
夕方、濡れた制服をクリーニングに出してから帰宅すると、ジャージを着て帰った娘を見て両親は、案の定何事かと騒いだ。
祐巳は適当なことを言ってはぐらかしたが、先刻まで言葉を発する事さえ難しかったのに、今ではすらすらと言い訳が出来るあたり、自分は中々図太い神経を持っているものだとこの時は感心したのだった。
入浴を済ませ夕食を終えてから、浅香さまに借りたジャージを洗濯しようと机の上にそれを置くと、祐巳はそれは勘違いだとふと気付く。
お姉さまに捨てられ、強烈な孤独感に苛まれた瞬間、確かに祐巳は気が狂う寸前まで追い詰められていたように思う。
あの状態から、通常とはいえないけれど幾分落ち着いた心を取り戻せたというのは、祐巳一人では当然出来はしなかったのではないか。
ならば惨めな人形に、生命を吹き込んでくれたものとは、何なのだろう。
記事にするつもりはないと、祐巳を案ずる温かい言葉をかけてくれた三奈子さまか、祐巳の凍った身体を内から溶かしてくれた、ホットミルクか。
他人の香りと温もりで包み込んでくれた、浅香さまのジャージか。
それとも、初対面ではあったけれど、何処か安心出来る雰囲気を纏っていた、林浅香さま本人か。
きっと、そのどれもが小さな火となり息吹となり、祐巳を救ってくれたのだ。冷たい、つめたい。氷のように固まった、祐巳の心を溶かして。
冷えた木机の上を人差し指の先でなぞってゆく、やがてそれは、一つの布地に触れる。
「……お姉さま」
自分自身に聞かせるように、そっと呟いてみる。以前ならば、その言葉には特別な響きがあった。
心の中で優雅に微笑むお姉さまを思い浮かべるだけで、どんなに幸せだった事か。
けれど、今はどうだ。去年の学園祭からかけられていたシンデレラの魔法は、いとも簡単に解かれ、音もなく静かに消えた。
「お姉さま」
ジャージを抱え、鼻先を押し付け目を瞑る。悲しくて悲しくて、それでも涙は出なかった。もう、祐巳は充分過ぎるほどに泣いた。枯れてしまった涙など、無理に出す必要もない。
ほんのりと花の薫りが、雨のそれと混じって鼻腔を擽る。きっと、あの人の薫りなのだろうとぼんやり思った。
そうだ。お姉さまに捨てられたからといって、この世界からこのまま消えてしまう訳にはいかない。
明日、浅香さまにこれをお返ししなければいけない。祐巳にはまだ、やらねばならない事があるのだ。
いまだ頭の中で優しく祐巳を呼び続けるお姉さまを首を振って追い出し、祐巳は洗濯機のある風呂場へと向かった。
戻る